『ツォツィ』
欧米映画のアフリカばやりは近年の傾向ですが、
本作はアフリカから発信されたアフリカ映画。
作品から発せられるエネルギーは
南アフリカ出身の監督が現地の役者を起用して作ったからこそ。
土地と言語のもつ説得力を見せつけてくれます。
荒野をはさんで隔てられる、何十万もの人間がひしめき合うスラムと大都会の摩天楼。
荒野に座ったツォツィが赤ん坊とともに見つめる光景は、スラムにしろ摩天楼にしろ、どちらも極端すぎてSFのよう。
でも、これはSFではなく現実のヨハネスブルグ。
“極端な貧富の差”を頭では分かっていたつもりでも
実際の映像で見せつけられると言葉もないです。
一方、ストーリーは筋だけみればいたってシンプル。
でも、事前知識の“強盗した車に赤ん坊が乗っていて・・・”というあらすじから想像した、不良少年(ツォツィは“不良”の意味)が父性に目覚めて更生する話とはちょっと違いました。
ツォツィは父性に目覚めるというより、子どもにかえる。
乳をもらう女性に赤ん坊の名を問われ、とっさに“デイビッド”と答えるツォツィ。
それは彼の本当の名前で、かつてエイズに冒された母が病床で呼んでくれた名前。
「いい子ね、ディビット。かわいい子」
赤ん坊をあやす声を聞きながら、うとうとと眠りに落ちるツォツィ。
赤ん坊の中に自分を見出し、ツォツィは育ち直しをしていく。
だから赤ん坊に執着するし、赤ん坊の父親への危害を許すことができない。
その父親はツォツィにとって初めて接する“子どもを愛する父親”だから。
物語のクライマックス。
警官隊に囲まれ、混乱し怯えるツォツィはまるで迷子の子どものようです。
そんなツォツィを導くのは、赤ん坊の父親の強さと寛容。
正直言って、ドラマとしては甘い結末だと思います。
真逆の結果になる可能性もあったし、
むしろそのほうが映画的だったかもしれない。
でも、それではあのかけ離れたスラムと摩天楼を繋ぐ道は見出せない。
必要なのは、ドラマティックな悲劇や神話ではなく、
起こしたことに責任を持ち、それを償い、また歩き始めること。
そうした地道である意味当たり前な人生の積み重ねなのだと
この映画は訴えているようにも思います。
TSOTSI
2005/南アフリカ・イギリス/日活=インターフィルム/1h35/TOHO
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